僕は先日、不思議な体験をした。
ある一冊の小説を読んでいたのだが、読み終えた後は一本の映画を観た気分になったのだ。
それはつまり、僕の追っていたものがあるタイミングで、活字から頭の中の映像にシフトしたということなのだろう。
その小説とはフレデリック・フォーサイス著の『ザ・フォックス』という本だ。
軽くあらすじを紹介しよう。
ある日、アメリカ合衆国の国家安全保障局(NSA)のコンピューターが何者かにハッキングされ、システムに大きな損傷を受ける。
NSAのセキュリティーは鉄壁で、それが破られることなど本来はあり得ないことだった。
では、それを成し遂げたのは誰なのか?
どこかの国の専門的な組織による犯行か?
あるいは自国のスパイによる犯行なのか?
答えはそのどちらでもなかった。
頭が良く狡猾で、人を騙すのが得意な狐を思わせるので「フォックス」と呼ばれるようになったその天才ハッカーの正体は、イギリスに住む18歳の引きこもりの若者、ルーク・ジェニングスだった。
その後、ルークはイギリス当局に逮捕される。
アメリカは重大な犯罪を犯した若者の身柄引き渡しをイギリス政府に要求する。
だが、ルークは自閉症の一種であるアスペルガー症候群を患っており、家族と引き離されて外国の刑務所に入れられると、精神に深刻なダメージを受けかねない。
この事態を受けて、イギリス首相の私的顧問を務めるサー・エイドリアン・ウェストンがある取引を持ち掛ける。
それは、アメリカに身柄引き渡しを免除してもらう代わりに、ルークをイギリス政府で雇い、極秘のサイバー戦に従事させ、得られた成果をアメリカにも提供するというもの。
これにアメリカ合衆国大統領は同意し、一大プロジェクト<トロイ作戦>を決行することになったのだった。
これが、この小説の軽いあらすじである。
この小説の驚くべきところは、入念なリサーチと緻密な描写による圧倒的な正確性だ。
まず小説が始まる前にNSAなどの各国の固有名詞を紹介するページがあるのだが、それが5ページにもわたっている所から、すでにその片鱗が伺える。
また、主人公のルークは、ラウリ・ラヴという実在する人物を元にしている。
ラウリ・ラヴもアスペルガー症候群であり、NASAのデータベースから秘密情報を盗んで、逮捕されている。
そして、彼もアメリカに引き渡すと自殺してしまう恐れがあるので、引き渡し不許可の決定がなされている。
現実のエピソードを元にしていることで、この小説のリアルさがより濃くなるというわけだ。
さらに、冒頭のルークの家に忍び込むシーンの描写。
ガラス切りのダイヤモンドがキッチンの窓ガラスに立てるかすかな音も、描かれた円が吸引ゴムではずされる低い音も、人の耳には入らなかった。
手袋をした手が丸い穴をくぐって掛け金をはずす。
黒い人影がシンクの上に現れ、そっと床におりて、裏口をあける。
チームが滑るように入ってきた。
この家の設計図は頭に叩き込んであるが、それでも障害物や罠を作られている場合にそなえて、全員暗視ゴーグルをつけている。
まずは一階の部屋を一つずつ見ていく。
見張りをしている者や眠っている者はいないか、罠や無音警報器をしかけていないか、確かめながら。
このような緻密な描写が、読んでいる人の頭にその場面をありありと思い起させる。
恐らく、僕の感じた「映画を観たような感覚」というのは、この部分によるものだろう。
あまりにも鮮明に思い起せるので、小説を読んでいたはずが、いつしか映像を観ているような錯覚を起こさせるのだ。
かといってその説明はくどくなく、ウィットに富んだセリフや疾走感溢れる物語の進行速度によって、ページをめくる手を止めてしまう心配はない。
「活字を追っていたはずが、いつの間にか映像を追っていた」というこの奇妙な体験を、僕だけではなく、あなたにも是非味わってほしいと思っている。
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