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オリンピックの歴史を振り返って失くしたものを知る

 

きたる2021年7月23日、東京オリンピックが開催されようとしています。

本来は喜ばしい出来事のはずですが、新型コロナウィルスの影響で開催されること自体が疎まれている状況になっています。

 

一般の人はリモートで仕事や授業を受けるなどの外出自粛を求められているにも関わらず、オリンピックだけは観客を入れたり、パブリックビューイングを求める。

このような普通の生活を犠牲にして、オリンピックだけは特別扱いという状況に辟易している人も少なくありません。

 

そもそもなぜここまで無理をしてまでオリンピックを開催しようとしているかというと、そこに巨大な資本が投入されるからです。

しかし、本来オリンピックが掲げる理念はこうした金銭的な思惑とは対極なものなのです。

 

ということで今回はオリンピックの歴史を振り返って、忘れ去られてしまった当初の理念について学んでいこうと思います!

 

また、この記事は橋場弦・村田奈々子編の『学問としてのオリンピック』を元に作成しています。

興味がある方は是非買って読んでみて下さい!

 

 

 

 

 

 

 

1.古代オリンピック

 

最初に知っておかなければいけないことは、オリンピックは古代オリンピックと近代オリンピックの2つに分けられるということ。

まずはオリンピックの祖である古代オリンピックについて見ていきましょう。

 

古代オリンピックは紀元前776年の第1回大会から紀元393年の第293回大会まで、ギリシア北西部オリンピアの地で1200年近くにわたって開催されました。

 

近代オリンピックとの共通点としては4年に一度、夏に開催されたことがひとつ。

そしてもうひとつはギリシア世界が参加する国際的な祭典だったことです。

 

当時のギリシアはポリスと呼ばれる都市国家が1000以上も割拠していて、常に小国分立状態にありました。

それらの都市国家がオリンピックの時だけは休戦協定を結び、各国の代表がオリンピアに集まって運動の技を競い合ったのです。

 

反対に近代オリンピックと異なる最も大きな点は、古代オリンピックは神々の父ゼウスに捧げる宗教的な祭典だったことです。

 

オリンピアという地名はこの聖地の主祭神である、ゼウス・オリュンピオスに由来します。

ギリシア北部のオリンポス山は、ゼウスを家長とする神々の家族が住むとされ、そこから「オリンポス山の主ゼウス」すなわち「ゼウス・オリュンピオス」という神格が生まれました。

 

その添え名である「オリュンピオス」から、この神の祀られる地がオリンピアとなり、オリンピックの語源にもなったのです。

 

古代オリンピックは5日間の日程で、競馬競技、五種競技、徒競走、格闘技が行われ、最終日には表彰式がありました。

 

当時の勝者は優勝者だけであり、二等賞や三等賞のたぐいは一切なく、優勝者には賞品としてゼウス神殿の背後に自生する神木から刈り取ったオリーブの若枝で編んだ冠を与えられました。

 

近代オリンピックでも優勝者にはオリーブ冠が与えられますが、その理由はここからきているわけですね。

 

彼らには金メダルのような金目のものは一切与えられませんでした。

しかし、金銭的な価値はなくとも、全ギリシア世界から讃えられるという栄誉こそが彼らにとっての最上の褒美だったのです。

 

そんな古代オリンピックですが、近代オリンピックと同じく、国際政治の変動に無縁ではありませんでした。

 

しかし、それでもなお古代オリンピックが政治的中立性を保てたのはオリンピアが純粋な神域として発達したからです。

彼らのゼウスに対する信心がオリンピックの中立性を守り、そして中立であるがゆえに、多くのアスリートたちの熱意を引き寄せたのです。

 

 

 

2.近代オリンピックの誕生

 

次は僕らに馴染みのある近代オリンピックの話をしましょう。

 

近代オリンピックは1896年に第1回大会が開催されましたが、古代ギリシア世界で行われていたオリンピック競技会を近代に復興させようと考えたのは、ピエール・ド・クーベルタンというフランスの貴族でした。

 

彼が貴族の出身だったという点は非常に重要です。

なぜなら、ヨーロッパ貴族には自分にふさわしい天職をえて、私利私欲のためでなく、公の利益のために何らかの高潔な行為をおこなうべきである、という価値観があり、彼はそれを受け継いでいたのです。

 

彼が自らの天職として見出したのは教育の分野でした。

教育カリキュラムにスポーツを組み込むことによって、フランスの教育を改革しようと考えたのです。

 

というのも、近年では世界の多くの国々でスポーツは教育の重要な柱を担っていますが、19世紀のフランスではスポーツはそれほど重要視されていなかったのです。

 

クーベルタンがスポーツを教育カリキュラムに組み入れようとしたのは、肉体の鍛錬を目的としたからではありません。

 

彼が教育としてのスポーツに期待したのは、健康・身体能力の向上よりも、道徳的・倫理的な役割を果たすことです。

クーベルタンはスポーツ教育によって徳のある人間を育てることができると信じていたわけです。

 

競技スポーツの導入による教育改革を目指したクーベルタンの思いは、いつしか規模の大きなスポーツの祭典を実現しようとする方向に向かっていきます。

そのスポーツの祭典こそが古代ギリシアオリンピアで行われていた競技会だったのです。

 

そして、1894年6月のパリ国際スポーツ会議で、クーベルタンをはじめとした、プリンストン大学教授のウィリアム・ミリガン・スローン、イギリス・アマチュア陸上競技連盟会長のC・ハーバードら会議メンバーによってオリンピック開催が決議されました。

 

開催国にはオリンピックを生み出した点で敬意を表し、ギリシアの首都アテネに決定され、1896年4月6日に第1回近代オリンピックが開催されることになりました。

 

 

 

3.第1回近代オリンピックとナショナリズム

 

第1回オリンピックでは10日間で、陸上、自転車、フェンシング、体操、射撃、水泳、テニス、重量挙げ、レスリングの9競技43種目の競技が行われました。

 

241人の参加者の内すべてが男性で、半数以上がギリシアでした。

当時は交通の便も今ほど発達しておらす、インターネットなども当然ありません。

なので、八万人も訪れたという観客もほとんどがギリシア人でした。

 

しかし、なかなかギリシア人は優勝することが出来ませんでした。

にも関わらず、ギリシア人は他国の勝者を温かく祝福したのです。

 

それほどまでに目の前で展開される競技は、観客に感動と興奮を与え、クーベルタンがオリンピックに込めた理念である、人間の道徳的・倫理的態度の育成は参加した選手のみならず、観戦する人々にも育まれていったのです。

 

とはいえギリシア人も自国の選手の勝利を望んでいなかったわけではありませんでした。

ギリシア人にとっての最高の瞬間は大会5日目のマラソン競技で、スピロス・ルイスが優勝した時に訪れました。

 

自国の選手が成果を出した光景を目にしたギリシア人は強い誇りを覚えました。

やはり自分たちは栄光の古代ギリシア人の末裔だったのだ、という思いを強くしたのです。

 

ギリシアという国、そしてギリシア人の偉大さを証明したルイスにギリシア人は、金銭や一生分の食事代など、様々な贈り物を申し出ました。

しかし、ルイスはその全てを断りました

 

それは期せずしてルイスはクーベルタンが提唱するオリンピックの普遍的理念と、オリンピックが喚起するナショナリズムの双方を具現化する存在となったことを意味したのでした。

 

また、今大会の優勝者にはオリーブの枝と証明書、そして銀メダルが与えられました。

二位となった選手には月桂樹の枝と証明書、そして銅メダルが与えられ、三位の選手への表彰はありませんでした。

 

なぜ優勝者に金メダルが与えられなかったのか?

この理由は競技は金銭的価値のために戦われるのではない、というオリンピックの理念を反映したからでした。

 

 

 

4.生き続ける理念

 

19世紀末、ヨーロッパでは国と国との利害対立が先鋭化していました。

各国でナショナリズムの機運が高まり、他国を敵視し、出し抜いて、自国の利益を確保することに躍起になった時代でした。

 

そうしたなか、万人に普遍な道徳的理念を掲げて、国と国、民族と民族をつなぐ国際的な大会として、オリンピックが構想されたことの意味はとても大きかったのです。

 

しかし、20世紀に入り2度の世界大戦が起こるなかで、オリンピックは時に国際政治に利用され、押しつぶされそうにもなりました

 

その最たる例が1936年の第11回ベルリン・オリンピックです。

このときオリンピックはドイツ民族のナショナリズムに利用され、ドイツ第三帝国の力を誇示し、喧伝する場と化しました。

 

というのも、第1回大会マラソン競技優勝者のスピロス・ルイスが、開会式でオリーブを手渡した相手は、ほかならぬナチ党の総帥アドルフ・ヒトラーでした。

 

そうした暗い歴史を刻みながらも今日までオリンピックは生き延びている理由は、オリンピックが人間賛歌の理念を発し続けてきたからです。

 

近代オリンピックにおいて最も重要なことは

勝利することではなく、参加することである

とされます。

 

もちろん、勝たないと意味がないというのが暗黙の了解ですし、選手はみな、いい色のメダルを取ることを目標にしています。

 

しかし、スポーツを通して道徳的・倫理的人間を形成するという勝ち負けを超越した人格重視の価値観。

これこそがオリンピックが今日まで続く国際的なスポーツ競技会となりえた理由なのです。

 

そこから時代が進むにつれて世界は様々な変化を経てきました。

中でも最大の変化は世界経済がグローバル化した結果、国民国家の意義が相対的に低下し、国家や政治というものが経済に従属してしまったことです。

 

その流れでオリンピックには巨大な資本が投下されるようになり、コマーシャリズムの論理が侵入することをもう誰も止めることが出来なくなっています。

 

結果、オリンピック本来の目的すらも忘れ、誰のためのオリンピックなのかも分からなくなってしまいました。

 

今後オリンピックが、クーベルタンの願った人類の連帯感を育む場として発展するのか、それともコマーシャリズムに屈して、資本の暴走と世界の分断に手を貸す結果になるのかは誰にも想像がつきません。

 

しかし、オリンピックに金銭的なものを超えた聖なる価値を求めるのであれば、僕たちはオリンピックの初心に立ち返るべきなのでしょう。

 

 

 

 

 

 

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