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人間関係に疲れた人に贈る心の処方箋

 

共感はこの社会において人々を繋げて協力し、社会や世界を良くしていくものとして基本的にポジティブに語られています。

 

しかし同時にその「共感」によって苦しむ人がいるのも事実です。

 

例えば共感を半ば強いられる同調圧力をかけられる場合であったり、自分が言ったことに共感を得られずに仲間外れにされたり...。

 

もちろん共感が全て悪いわけではありません。

むしろ自分や社会や世界、それら全てを良くするために間違いなく重要な要素です。

 

ただ「共感の持つ負の面」を理解せずに、それに適応できない自分はダメだと思うことはとても悲しいことです。

 

そうして人間関係に疲れたという人に向けて、今回は共感の危険性について説明していき、うまく付き合えるためのきっかけになれば嬉しいなと思います!

 

また、この記事は永井陽右さんの著作『共感という病』を参考に作成しています。

興味がある方は是非読んでみてください!

 

 

 

 

 

 

 

 

1.自分の人生が自分のものでなくなった人たち

 

共感されたいし、共感したい。

それ自体にはなんら問題はありませんし、社会的な生き物である以上、誰だってそういう面はあるでしょう。

 

しかしそれはその用法用量が適切である場合の話です。

 

分かりやすいのはツイッターやインスタグラム、フェイスブックなどのSNSの世界です。

 

フォロワーやいいねといったある種の共感ボタンが数字化されて、他者と自分との比較を無意識に強いられています。

 

隣の芝は青く見えるうえに、その隣の芝も無限にあり、自分も負けじと自らの芝を青く塗りつくした結果、知らず知らずのうちに疲弊していくのです。

 

酷い場合には共感されたい、認められたい、けれどもされなくてSNS上で共感されるように嘘をついたり、見栄を張ったり、過激な行動をすることもあります。

 

また、自己の存在や意味を宗教などの外付けの価値観で定義していない人が多い日本人によく見られることとして、「自分はなんなのか」「自分はなんのために生きているかが分からない」と感じてしまうことが挙げられます。

 

そんな自らの存在に自信を持てていない人が、何かしらの共感を得ると「自分の存在意義はこれだ!」と思ってしまい、麻薬のような高い依存性の虜になってしまう可能性があります。

 

そうなると他人の価値観に認められることが生きる目的になってしまい、それではもはや自分の人生とは言えなくなるのです。

 

 

 

2.美しい共感ほど暴力的になりやすい

 

先ほどは共感が内側から自分を蝕む怖さについて触れましたが、次は外側に向く共感の怖さについて言及していきましょう。

 

その怖さとは「共感した仲間以外への攻撃性」です。

 

例えば「仕事は何にしても3年は続けるべきだ」と考えている人達がいるとします。

すると彼らは同意している仲間同士でその考えをより強固なものとしていき、彼らの仲間意識をさらに強めます。

 

そこまでは問題ありません。

 

しかしそれとは逆の「合わない仕事は早めにやめた方がいい」という意見を持っている人が目の前に現れた時、「あいつは分かっていない」「あんな考えの奴はなにしたって上手くいない」という嫌悪や憎悪を生み出す危険性があります。

 

その逆も然りです。

 

また、そうした集団における同一性は古い集団同一性とすぐに置き換わることも分かっています。

 

ニューヨーク大学神経科学者ジェイ・バン・ベイベルの実験では、白人と黒人を数十名集め、彼らをタイガーズとレパーズという2つのチームにバラバラに分けました。

 

その結果、自分と同じチームに属する人の顔と、そうでない人の顔を見たときで好感に関する眼窩前頭皮質の活発具合が明確に異なり、前者のときに活発になることが分かったのです。

 

つまり黒人と白人という既存の集団同一性を瞬時に塗り替えたわけです。

 

これは正しいかそうでないか、正解か間違いかという話ではありません。

あるひとつの考えには全く別の考えがあるのは当たり前のことであり、それらの中間点こそが物事の本質です。

 

にも関わらずたったひとつの意見だけで集団を形成し、それ以外は排除するという考えは非常に恐ろしいことです。

 

恐らく、あなたも人生で一度は「君のその考えは間違っている」「そんな風な生き方はダメだね」と全否定をされたことがあるのではないでしょうか?

 

その時のあなたは非常に腹立たしくて悲しかったことと思いますが、そのような意見を浴びせられるのは、その考えが当たり前の環境に身に寄せた人が自分と異なる考えの人に居合わせたからです。

 

しかしその心ない意見ですら共感し、支えになる人もいます。

 

問題は意見そのものがどうであるかということではなく、ある意見が集まると共同体が生まれ、別の意見を攻撃し始めることです。

 

この怖さを自覚しなければ、自分も無意識の内に攻撃する側にまわってしまう可能性もあります。

 

 

 

3.共感されなくても、繋がっていなくても大丈夫

 

そのような「共感」に疲れた人に伝えたいのが、たとえ共感されなくても、誰とも繋がっていなくても基本的には全く問題ないということです。

 

自分は自分であり、それ以上でも以下でもありません。

そんな自分の存在は誰かに肯定されなければ存在しないといったものではないですよね?

 

だってあなたは現にそこに存在しているのですから。

 

よく社会では存在価値だとか存在意義だとか言いますが、そもそも気が付いたらそこに存在しているわけで、そんなこと知ったこっちゃありません。

 

そしてお金を持っていたり、フォロワーが多いから、より良い存在ということも一切ないですし、逆に人を助けたからより良い存在ということもありません。

 

人生なんて気がついたらそこに存在していて、最終的には死というエンディングがある。

そんな程度のものです。

 

そう考えると存在価値なんてどうでもいいですし、気になるなら自分で決めてしまえばいいと思います。

 

そもそもどんな人にだって人権は普遍的に認められているのですから、自己否定をする必要がありません。

勝手に一人で自己肯定をすればいいのです。

 

また、そうしてありのままの自分を理解するからこそ、自分でない他者の存在を自覚し、認めることもできるのではないでしょうか。

 

それは他者に対する依存から脱却し、ひどく辛い共感中毒にならないための心の処方箋でもあるのです。

 

 

 

 

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