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隅に追いやられていたものの大切さに気付く!現代人が読むべき一冊! 『分解の哲学 腐敗と発酵をめぐる思考』

 

 

最近、僕がよく思うことがある。

それは皆がみんな良くあろうとし過ぎではないか?ということだ。

 

もちろん僕自身もその波にのまれてもいて、日々、趣味の練習や足りない知識の勉強などにそこそこ時間を割いている。

なんならこのブログ通してカラオケの上達方法を発信しているくらいだ。

そんな僕が言うのもためらいがあるが皆よくあろうとしすぎと感じる。

 

YouTubeを探れば、やれ対人関係を良くするにはどうだ、成功者になるにはどうだ、賢い人とバカの違いはどうだと躍起だ。

そういった動画の視聴者も多い。

 

確かに成長することや新たな知識を獲得することは楽しいと感じるし実際に得もある。

だが、そういった行為にハマってしまった人特有の疲れや苦しみもある。

弱い自分への憤り、他人への劣等感、上には上がいるという終わりの見えないやるせなさ。

 

同じような経験をした方も大勢いるのではないだろうか?

まさに最近、自分がそのような疲れを感じていた。

 

そんなある日、本屋で出会った言葉にハッと胸を打たれることになった。

それはこんな文章だ。

 

 

作る、生産する、積む、上げる、重ねる、生み出す、というふうに、私たちは、基本的に足し算や掛け算の世界を生きている、と思わされている。

キャリアアップすることも、教養を身につけていくことも、自分を「形成」することだと思い込んでいる。

けれども、宇宙がそうであるように、タネの殻が突き破られて芽が出るように、卵が破られて幼虫が顔を出すように、破水してから子宮に格納されていた子どもが外の世界へ向けてじりじりと産道を押し進むように、私たちの暮らす世界は、破裂のプロセス、すなわち分解のプロセスのなかを生きているにすぎず、そのなかにあって何かを作るのは、分解のプロセスの迂回もしくは道草にすぎず、作られたものもその副産物にすぎない。

生まれたときにはすでに分解と崩壊に向かっている、というよりは、分割し崩壊し始めることを生まれるというのではないか。

つまり、私たちは足し算や掛け算というよりは、引き算であり割り算の世界を生きているのではないか。

 

 

これは、藤原辰史さんの著作『分解の哲学 腐敗と発酵をめぐる思考』という本に出てくる言葉だ。

 

 
 

この文章を読んで、僕が感じていた憤りに終止符を打てるような気になった。

頑張っているのに辛い。

それを抑えるためにより頑張れば頑張るほど一層辛さは増す。

そんな状況を、きっと知らず知らずのうちに多くの人が抱えているであろうその苦しみを根源から絶てるような気がした。

 

それから僕はこの本を購入し、貪るように読んだ。

ゲームが詰まった時に攻略サイトを読むように、或いは好きな人へ近づくにはどうすればよいかを調べる思春期の少年のように。

そして、この本を読み切って感じた事は「この本に出会えてよかった」ということ。

 

 

この本は大きく分けて3つのことを描いているように見える。

 

・不完全の美

・完璧を求める代償

・すべてが循環の一部である

 

この3点である。

それぞれ順を追って説明していこう。

 

 

・不完全の美

 

ナポリ人は、卓越した名人芸の中で、自分の所有する壊れた自動車を、街頭で見つけたような小さな木の棒という予想外のものを取り付けて、ふたたび走らせることができる。

だがもちろん、当然のことながら、まもなくそれはふたたび壊れるだけだ。

というのも、完全に修理してしまうことは、ナポリ人に嫌悪感をもたらすから。

ナポリ人はむしろ完璧な自動車など最初からあきらめているのである。

完璧な自動車は、それであること以上に何もナポリ人の関心を惹かない。

いわゆる自動車に機能する損傷がない新品は、ナポリ人にとっては根本において不気味である。

というのはまさに、それが何もしなくてもきちんとはたらくからであり、最終的には、どのように、そしてどこに向かって動くのかを一度として知ることができないからだ。

 

 

これは作中で紹介されている哲学者ゾーン=レーテルのナポリの人に対しての言葉である。

 

完璧なものはナポリ人にとって嫌悪感を感じるものであり、逆に壊れているものは自分に近いという親近感を覚える。

壊れているものの修理を通じて、そのメカニズムを体で理解して、ようやくものと深い関係が築ける、というのがナポリ人の哲学だそうだ。

 

また、同様に作中で書かれている、幼稚園の創設者であり積み木の生みの親であるフリードリヒ・フレーベルの積み木の哲学はこうだ。

 

あまりにも形づくられすぎており、あまりにも完成されすぎているような遊具では、自分からもはや、なにものをも始めることができないし、それによってなんら多様なものを十分自分からつくりだすという力が、それによってじっさい殺されてしまうのである。

同様に、もしわれわれが子どもたちに、すでにあまりにも完成されすぎているものをあたえるならば、そのことによって同時に、一般的なもののなかに特殊なものを見るという要求を子どもから奪ってしまい、またそれを発見する手段を奪ってしまう。

 

 

これらのことから分かるように、不完全なものであるが故の優れた点、美徳、親近感が存在していることは確かである。

「完璧」なものが必ずしも「最良」ではないことを、完璧を求めすぎる現代の風潮に、はっきりと突きつけてくれる。

 

 

 

 

・完璧を求める代償

 

「ロボット」という名前をこの世に生み出したチェコの作家、カレル・チャペックの作品を元に完璧を求めることの副作用についても作中では論じている。

全てを書くと長くなってしまうので少しだけかいつまんで書くと、不老不死の薬を求めるヴィーテクと実際に不老不死の薬を飲んで300年生きたエミリアの物語だ。

 

ヴィーテクは人間の寿命は短すぎると主張する。

不老不死になることで永遠に進歩することができ、人間を超えて、時代も超越した「偉大なもの」になろうと考える。

しかし、その薬は数が限られており、限られた貴族しか服用することはできない。

なので、その不老不死となった貴族が「凡庸な虫けらども」を支配するという新たな身分制度の創出を試みる。

 

一方、エミリアはその薬を父親に飲まされることで不老不死となった。

しかし彼女が実際に300年生きて感じた事は「退屈」であった。

そして、そのエミリアはヴィーテクの意見を一蹴する。

「芸術はね、人間がそれを完璧にできないかぎりにおいて、意味を持つのよ。」

 

そして、不老不死論争は最終的に、エミリアとヴィーテクの間を取り持つように、生命は子供へと伝えられていくのでそれこそが永遠の生命ではないか、という意見で決着がつく。

 

 

ヴィーテクは腐敗せず永遠に向上し続けようと努力した。

しかし、この論を突き詰めて考えていくと、分解過程を担う動物たち、別種の人類を外部に住まわせておき、そこで思い出したくないわりには生きていくために手放すことのできない分解過程を営んできてもらうという、上に立つものが下のものを踏み台にするという構図を生み出す。

 

「良いこと」を追求する行為は、「悪いこと」を排除する行為とほぼ同意であり、それが優秀ではない人への非難、あるいは自己嫌悪にも繋がっている。

なぜなら、あらゆる点から見て完璧な人間など存在するはずがないからだ。

 

冒頭で書いた僕の「疲れ」とはまさにこのことに帰結するのだと、その時初めて理解できた。

 

 

 

 

・すべてが循環の一部である

 

ここまで不完全が故の優と完全であるが故の劣について書いてきてるが、だからといってどっちが本当に良い事なのか?というような陳腐な議論をするつもりはない。

それは結局、答えがどっちに転ぼうと、立場を変えただけで本質はなにも変わっていないからだ。

 

この本は生物学からの観点でも「分解」についての考察をしており、僕が心に残っている内容がある。

それはすべてが循環という大きな輪の中にいるということ。

例えば、ライオンがキリンを殺して食べるということについて。

 

 

ライオンがキリンを食べると、次はハイエナがきてキリンを食べる。

ハイエナが満腹になると、今度はジャッカルが貪り食う。

空にはハゲワシたちが舞っていて、ライオンやハイエナたちの群がる中、降下してキリンの死骸をつつく。

1日も経つと骨と皮だけになっていて、骨にこびりついた肉にはハエが卵を産み、ウジが沸いている。

 

ライオン、ハイエナ、ジャッカルは食べたキリンを糞に加工する。

そこに糞虫たちが群がり、丸い球に変えて、土に埋める。

そしてそこに糞虫の雌によって卵が産みつけられる。

糞虫の幼虫は糞を食べて蛹になり、羽化して飛び立つ。

 

「一頭のキリンは死んだが、数十頭のライオン、ハイエナ、ジャッカル、そして何百ものハゲワシ、何千もの糞中に食物が与えられ平原はより多くの草を育てたことだろう。」

 

 

ほかにも鮭についての考察もあるが、これも長くなってしまうのでここでは割愛させてもらう。

このように一見「悪いこと」や「悲しいこと」のように思えることでも、視点を変えれば「悪いこと」だけではないということが分かる。

 

安易な精神論や使い古された手法ではなく、淡々と事実に基づいて考察されるからこそ、全てに意味はあり、僕たち人間もその循環の中にいるのだと気づかされる。

 

 

 

 

大量生産、大量消費、使えなくなったらまた別の新しい物を買う。

常に綺麗で完璧なものを求めた現代人は、分解の過程、腐敗の過程という「汚い物」をより、見ようとはしなくなった。

しかしこの本を読むと、その綺麗で完璧なものは「汚い物」と密接な関係にあり、その「汚い物」によって助けられていることが分かる。

 

それは所謂「悪いこと」にも良い側面があり、今まで見ようとしなかった、思い出したくもなかった自分の欠点を受け入れることに繋がると僕は感じる。

 

この本は自己啓発本ではない。

ビジネス本でもない。

ましてや、人生の指標を指し示した本でもない。

 

しかし、感情論や綺麗事を廃して考察したこの本だからこそ、綺麗に飾り付けられた言葉よりも現実味を帯びて、自分の中へと消化、吸収されやすいように思う。

これを読んでくれている方も、是非この本を手にとって読んでみて欲しい。

あなたが今まで気づかなかった物事の本質に気付かされることだろう。

 

 
 
 

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