人はみな内に隠している闇がある。
僕はそう思えてならない。
なぜなら、人間は社会的な生物だからだ。
社会に身を寄せる以上、我慢しなければいけないこともある。
その我慢が消化されず、内に溜まってしまった時、それは人に見せたくない闇として姿を変える。
こう思うのは、他ならぬ僕自身もそうだからだろう。
だけど振り返って考えてみると、そう思うようになっていったのは、中村文則さんの小説を読んでからだったように思う。
とりわけ『迷宮』は、その「内なる闇」について追求した作品だと言える。
この小説の主人公は平凡であり、普通の人間だった。
詳しく言うなら、弁護士を目指す優秀な人間で、真っ当な人生を送っていた。
しかし、ある女性と出会うことで、彼の人生は大きく変化してしまう。
というのも、彼女がきっかけで彼の内面に大きな変化が訪れるのである。
しかし、この小説の面白い部分でもあり、大切な部分は、それが眠っていた彼自身の本心という点だ。
彼女のせいで主人公が変わったのではない。
彼女のおかげで主人公は呼び覚まされるのである。
「本当の自分」に。
大抵の物語では、
「他人に流されず、自分の人生を歩めるようになったんだね!おめでとう!」
となるかもしれないが、この小説は全くそうではない。
なぜなら、彼女が呼び起こしたのは「闇」だからだ。
「自分の価値観で人生を生きる」
そう言えば聞こえはいい。
作中の表現をそのまま引用するなら、
「たとえば独り身で、憂鬱な仕事をし、でも蝶の収集を本気でしてる男がいるでしょう?
その男にとっての人生の幸福は蝶ですよ。
その男の一日の価値は、いかに珍しい蝶を収集できるかどうかです」
という具合だ。
これに反発する人は少ないだろう。
ましてや今の時代、「他人を気にしない」だったり、「好きなことで生きる」だったり、「自分に正直になる」だったりの言葉が、飽和状態である。
あえて分類するなら、僕もこっち側の人間だと思う。
だけど、その
「正直に生きる」ことが、他人に害を及ぼしてしまうものだったら?
自分だけではなく、他人を巻き込んでしまうとしたら?
極端な話、犯罪を犯してしまう行為だったとしたら?
ここがこの小説の最も大切なポイントだろう。
主人公の欲望は「世界を否定する」ことであった。
「自分の幼少期のトラウマのせいで、自分はこうなったのだと」
「世界のせいで自分はこうなってしまったのだと」
それを形にするには世界のルールに反すること、つまり法律を犯すことだ。
最も罪の重い殺人で。
これを僕のような平凡な一般人や、事件の当事者ではない傍観者の立場から言うなら
「自分の人生を生きるのは素晴らしいけど、人に迷惑をかけるのはダメでしょ」
こんなものだろう。
だが、当事者がその「闇」を解放することを一切ためらっていないとしたらどうだろう?
僕たちが大好物を食べる時のように、大切な人と会っている時のように、自分の大好きな趣味に没頭している時のように、
「闇の解放」を生きる意味とまで感じている人間を完全に否定することなど出来るだろうか?
「善悪を超越した内なる自分の解放」
これがこの小説のテーマだ。
この話を聞いた時に、
「なぜそのような考えの人間が生まれるのだろう?」
そう思った人もいることだろう。
これは「無意識的な死への憧れ」があるからだと僕は思う。
自分を蔑ろにした世界を冒涜し自分も死ぬ、或いは世界が生み出した自分を破滅させることで、世界そのものを否定するように。
このように書くと、
「そんな人間もいるのかな」
と思うかもしれないが、これは他人事では無い。
精神分析家であるエーリッヒ・フロムによると、生の欲望と死の欲望は絶えず、僕たちの中でバランスを取っているだけで、どちらか片方しか存在しない人はいないという。
あなたも人生で、一度は消えてなくなりたいと思ったことはないだろうか?
そこまで本気では無かったかもしれないが、それは死への願望が強くなった状態ということだ。
本気度の違いは大小あれど、これは他人事ではないのだ。
この小説はミステリー小説でありながら、人間を徹底的に追求した純文学でもある。
作者のメッセージが伝わりやすく、こう生きてほしいという教訓がそのまま書かれているような小説もこの世にはごまんとある。
しかし、この『迷宮』はその類ではない。
読んだ後の感想、考えたこと等は人によってかなり違ってくるだろう。
それがこの小説の大きな魅力なのだ。
2018年発売の超名作ゲーム、『Detroit Become Human』のディレクター兼シナリオライターである、デヴィッド・ケイジ氏の言葉
「ジレンマを伴う困難な選択が、人間を成長させ、その人を形作っていく
なぜなら、困難な選択によって、自分がどんな人間であるかを改めて知ることに繋がるからです」
正解が何か分からない。
そもそも正解なんてあるのか。
この思考の「迷宮」を抜けた時、そこには今までとは全く違った自分がいることだろう。
そう、この小説『迷宮』の主人公のように。
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