自分の人生は何のためにあるのか?
自分とは何者なのか?
このような問いに苛まれながら生きている人は結構多いものです。
人生の目的が分れば生きやすくなりますからね。
この問題を解決するためには何が本物で何が偽物かを見分ける必要があります。
そしてその2つを見分ける重要なポイントは「苦しみ」です。
ということで、今回は自分を知るとはどういうことか、そして「苦しみ」に注意することの重要さについて話をしていきます!
また、この記事はユヴァル・ノア・ハラリ氏の著作『21Lessons』を元に作成しています。
是非買って読んでみて下さい!
1.人は人生を物語だと思いたがる
「人生の意味は何か」という問いはあなただけではなく、太古の昔から多くの人が悩み続けてきました。
しかし、この答えは時代や世代によって変わり続けます。
なぜなら、何を知っていて何を知らないかもまた常に変わり続けるからです。
そして人生の意味について問う時はほぼ例外なく、人は物語を語ってもらうことを期待しています。
人間は物を語る動物であり、数やグラフではなく物語で考えるし、世界についてもヒーローと悪役、争いと和解、クライマックスとハッピーエンドがそろった物語のように展開していると信じているのです。
無数の不安な人たちに何千年にもわたって語られてきた大人気の物語があります。
それは、僕たちはみんな、生きとし生けるものを結びつける永遠のサイクルの一部というものです。
現代でいうとディズニーの長編アニメ『ライオンキング』が有名ですね。
幼いライオンのシンバが自分の存在の意味を知りたがると、ライオンの王である父のムファサは大きな「命の輪」について語ります。
レイヨウは草を食べ、ライオンはレイヨウを食べ、ライオンが死ぬと、その体が分解して草の養分になる。
こうして命は一つの世代から次の世代へと続いていく、とムファサは説明します。
しかし、それぞれの動物がこのドラマにおける自分の役割を演じれば、と付け加えます。
なぜなら、全ては結びついていて、誰もが他のすべてに頼っているので、草の葉一枚がその役割を果たしそこなっただけでさえ、「命の輪」全体が崩れてしまいかねないからです。
シンバの使命はムファサの死後、動物たちの王国を支配し、他の動物たちに秩序を守ることだ、とムファサは言います。
ところが、ムファサが邪悪な弟のスカーに殺され、天命を全うできなかった時、幼いシンバはこの不幸は自分が招いたのだと思い、罪の意識に苛まれます。
そして王国を離れて荒野にさまよい込んだ先でミーアキャットとイボイノシシの2匹の動物に出会います。
彼らはどんな問題にも「気にするな(ハクナ・マタタ)」と考える反社会的な哲学を持っており、彼らと気楽な数年を過ごすことになります。
しかし、シンバは自分の宿命を免れることはできません。
自分が何者で、生涯に何をするべきなのか分からないので成長するにつれて次第に悩むようになっていきます。
映画の山場でムファサの霊が幻影となってシンバの前に現れ、「命の輪」と王の血を引いている事実を思い出させます。
そしてシンバはついに自分が何者で何をすべきかを悟ることになります。
その後、シンバは王国に戻ってスカーを殺し王となり、調和と繁栄を回復させ、シンバは生まれたばかりの跡継ぎを集まった動物たちに誇らしげに示し、大きな「命の輪」が続いていくことを確実にしたところで映画は終わります。
もしあなたが「命の輪」という物語の何かのバージョンを信じていたら、人生における自分の義務を定める、確固とした真のアイデンティティがあることになります。
今までずっと人生の目的が分からないかもしれないが、ある日、人生の大きな山場を迎えた時にそれが明らかになり、自分の役割を理解する。
その結果、多くの試練や苦難に見舞われるかもしれないが、疑いや絶望からは逃れられるというわけです。
さらにもうひとつの例として「ロマンス」も紹介します。
ロマンスは、今、ここという範囲を超えようとはしません。
今、ここで最愛の人に触れることができさえすれば、大きな幸福感を感じ、全宇宙と繋がったようにさえ感じられる、というわけです。
とはいえ実際には最愛の人もまた、ただの人間に過ぎず、毎日電車の中やスーパーマーケットで無視する大勢の人と、本質的には何の違いもありません。
しかし、このような物語を信じている人にとって、その人は人生の全て思え、喜んで無我夢中になる。
もし、誰かに本当に恋をしていたら、人生の意味について悩むことなど決してない。
では恋をしていなかったらどうなのか?
もしロマンティックな物語を信じていながら、恋をしていなかったとしても、少なくとも自分の人生で目指すものが何かは分かっています。
それは運命の人と出会うことです。
無数の本や映画で目にした通り、いつの日にか特別な人に出会い、全人生が突然意味を持つようになると信じているわけです。
2.人生は物語ではない
上で挙げたように優れた物語は人に役割を与えなければならないものの、真実である必要はありません。
物語は純粋な虚構でありながら、それでも人にアイデンティティを与え、自分の人生には意味があると感じさせることが出来ます。
ところが、近代は少し状況が変わりました。
なぜなら「自由に人生を決める」という考え方が広く浸透してきたからです。
人生の何たるかも、どの物語も信じたらいいか分からないときにはどうするべきか?
答えは選ぶ能力そのものを神聖視するのです。
あなたは何でも好きなものを選ぶ力と自由を持って生まれてきた。
その自由にと向き合えば、いずれ悟りの瞬間が訪れ人生の真の意味を見つけることができる。
あなたの人生は既製品ではない。
この世界に神の脚本などなく、何であれ自分の外にあるものは私の人生に意味を与えることはできない。
自分の自由な選択と自分の感情を通して自分が世界に意味を吹き込んでいく、というわけです。
ところが、魅力的に聞こえるこの自由主義の物語も、上で挙げたスケールの大きい作り話と同様、真実ではないのです。
科学的な見地から言えば選択や創造は、生化学的な信号をやりとりしている何十億ものニューロンが産んだものであり、人間は既成の常識から逃れられたとしても結局、無慈悲な生化学的アルゴリズムの言いなりなのです。
だとしたら、
「ある一つの事柄に対して対極的な思想を持つ人がいるのはなぜ?」
と思かもしれませんが、この違いは様々な文化的な傾向や遺伝的な要因があるだけで、断じて人間に「自由意志」があるからではありません。
一度「〇〇について考えよう」と、意識してひとつのことを考えてみて下さい。
すると、それほど時間がたっていないにも関わらず、これから何を食べるか、何を観るか、好きなあの子は今何をしているか、など次々に他のことを考えていることに気づくとハズです。
僕たちは自分の血圧を支配していません。
それと同じように脳も操作することはできず、自分の欲望やそうした欲望に対する反応さえも支配していないことに気づくべきです。
あなたは思考や情動や欲望を経験するが、それらを支配してはいないし、所有していません。
つまり「自由」も、『ライオンキング』やロマンスと同じように虚構の物語なのです。
「自分は何者なのか?」
と問うとき、素敵な物語を聴かされることを期待してしまいますが、本当に知っておく必要があることは、「あなたは物語ではない」ということです。
3.「苦しみ」に注目せよ
こうした大掛かりな物語は全て、人の心が生み出した虚構の物語でしかありませんが、絶望することはありません。
なぜなら、現実のあなたは依然としてそこに存在するからです。
ここで重要なのが、「人生の意味は何か?」という問いはどういう感情からきているのかということです。
結局のところ、この質問の本質は「どうやったら苦しみから逃れるか?」なのです。
これを解決するには、虚構の物語を捨て去る必要があります。
自分とこの世界についての真実を本当に知ったなら、以前とは比べ物にならないほどはっきりと現実を観察でき、何があっても惨めになることはありません。
しかし、これはとても難しいことです。
僕たち人間は虚構の物語を創作してそれを信じる能力のおかげで、他の生物より遥かに効率よく協力することができたので、世界を征服できました。
なので、人間は虚構と現実を見分けるのが大の苦手なのです。
それでもこの違いをしたければ、「苦しみ」に注目することが出発点となります。
なぜなら、この世で最も現実味があるのが苦しみだからです。
なにか壮大な物語に出会い、それが現実のものか想像のものかを知りたい時は
「その物語の主人公は苦しみうるか?」
と、疑問を投げかけてみましょう。
例えば誰かが日本についての物語を語ったら、日本が苦しみうるかどうか、少し時間を
とって考えてみて下さい。
すぐに答えが出るハズです。
日本は当然、目や手、感覚や愛情を持っていません。
日本がもし戦争に巻き込まれたとしても、日本は苦しみも悲しみもしないわけです。
それに対してあなたが殴られたり、病気になった時に感じる痛みは100パーセント現実のものです。
というわけで、もしこの世界や人生の意味や自分自身のアイデンティティについての真実を知りたければ、まずは苦しみに注意を向け、それが何かを調べてください。
そして、その答えは断じて物語ではないのです。
何かあれば
までどうぞ!