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悪に堕ちた人間は救われるのか? 人間の悪意に迫る問題作!『悪意の手記』

 

 

「人はなぜ犯罪を犯すのだろう?」

もっと言うと、

「僕と犯罪者は一体どこがそんなに違うのだろう?」

昔、そんなことを考えたことがあった。

 

「マジであんな犯罪を犯すやつの精神は分からんわ」

と、なにかの事件の犯人に対して友達が口にしていた時、

「僕が犯罪を犯せば、今まさにその理解できない犯罪者になってしまうことだって、出来てしまうのに」

と、反射的に考えてしまったことを覚えている。

 

 

あれから数年。

そんなことを考えていたことすら忘れていた僕だったが、その疑問が急に蒸し返されることとなった。

 

それは中村文則さんの著作『悪意の手記』によって、僕はその疑問の答えをまざまざと見せつけられたからであった。

 

 

 

この物語は主人公がTRPという致死率の高い病を患っている所から始まる。

 

日に日に弱っていく体に生きる意志を次第に失っていく主人公。

普通や幸せな人生を送る他の人を羨み、それが自分には叶わないので、激しい憎悪を感じたりもした。

 

しかし、主人公は治る。

一度は諦めた人生を普通に送ることができるようになったのだ。

 

 

ここまではよくある物語かもしれない。

ハッピーな導入部分と思うだろう。

しかし、この小説が面白く、そして凄いのはここからだ。

 

なんと主人公は全く喜ばなかったのである。

自分でも驚くほどに。

 

なぜなら、彼は普通の人生を恨み、憎んでいたから。

その恨んだ人生に自分が迎え入れられたことに苦痛すら感じるようになる。

そして、自殺を考えていたところに偶然、かつての親友Kに出会うのだった。

 

まさに自殺を考えていた主人公だったが、その時にある考えが浮かんでしまう。

それは「Kを殺してしまう」というものだった。

 

 

 

こんな話の展開を僕は他に知らない。

普通は病気が治らない中で人生について意味を見出していくとか、奇跡的に治ってハッピーエンドとかが定番だ。

しかし、この小説はどん底→復活という名のどん底、というなんとも変わった展開を描いてみせている。

 

作者の中村文則さんが言うには、猟奇的な少年犯罪を遠くからではなく、彼ら側からの視点で書いたという。

その言葉が示す通り、主人公は殺人犯であり、この世で最も裁かれるべき存在であるにも関わらず、彼に感情移入できてしまうのだ。

 

 

大学の講義に出席したある1場面。

「なぜ人を殺してはいけないか?」

という哲学の議論を求められた際に、彼は無視をした。

すると教師はイラつき、こんな言葉を投げる。

 

「これは重要な問題なんだよ。

多発する少年犯罪は、大きな社会問題だ。

君たちのような次世代を担う人間がこのことを真剣に議論しないでどうする?

自分のことのように、考えてもらいたいもんだ。」

 

その言葉が気に障った主人公はこう返す。

 

「いいか悪いかなんてのは人間が作った価値基準でしょう?

その発言はその価値基準を無視した問いだから、何を答えたって言い返されるに決まってるじゃないですか。

馬鹿馬鹿しい。

駄目だという確固たる答えが出てきたとしても、じゃあ本当に駄目なことだから尚更やってみようっていう奴が出てくるに決まってる。

違いますか?

逆に殺していいってことになったら、すでに殺したことのある殺人者が救われるとでもいうんですか。

なんだ、いいんだ、もう悩まなくていいんだって、そうなるとでもいうんですか、そんな簡単なことかよ、ふざけたことを言うな」

 

さらに続けて、

 

「なぜ人間は人間を殺すとあんなにも動揺するのか、もっと言えば、動揺しない人間と動揺する人間の違いはどこにあるのか、どうして殺人の感触はああも絡みつくようにいつまでも残るのか、俺が知りたいことなど、誰も考えてなんかいない。

幸せな人間が、机に座って悪人のことを語ってるんだ。

くだらない。

俺もお前らも、みんなくだらないんだ。

なにが次世代だ、適当なことを言うなよ」

 

 

と返す。

彼の苦悩と、それを体験していない人間にああだこうだと言われる憤りのようなものを強く表した文章だろう。

教師側が正論を言っているにも関わらず、主人公に入り込んでしまい、つい、胸が苦しくなってしまう自分がいる。

 

 

その後紆余曲折あり、主人公はKを殺したことを一生背負い、最後まで生きる事を決意するのだが、これらのことから感じられるのは、結局、皆必死に生きているということである。

中村文則さんはあとがきを大体、「共に生きましょう」の言葉で締めくくるのだが、その言葉の通り皆生きているのだ。

 

冒頭に書いた、

「自分と犯罪者の違い」

これは僕が思うに、それらの犯罪は皆必死に生きていることから結果的に起きた、あるいは起こしてしまったことであり、人間として本質はほとんど変わらないのだろう。

行動を起こしたか、起こしていないかの違いだけなのだ。

 

 

決してこれらの犯罪を容認するわけではないが、これも人生、このような綺麗ではないものも含めて、紛れもない人生なのだとこの『悪意の手記』には教えてもらったように思う。

 

 

この主人公が書き記した「悪意の手記」が、誰かの悪意に寄り添い、少しでも溶かしてくれるようにと、僕自身も思いながらこの記事を書いている。

それは「善意」なのか、世界の大部分を占める「偽善」なのか、それともこの小説の主人公が魅入られた「悪意」によるものなのか。

それは今の僕にはまだ、ハッキリとは分からないでいる。

 

 

 

 

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