『サピエンス全史』の上巻では、人間のこれまでの歴史を紐解いてきた。
対して、下巻の後半では人間の未来、ホモ・サピエンスの今後ついて、面白い考察をしている。
上巻についての記事はこちら。
それは将来、人間は人間を超えた「別のなにか」になるというのだ。
まず前提として、過去40億年近くにわたって、地球上のあらゆる生物は自然選択の影響下で進化してきた。
例えば、キリンが長い首を獲得するに至った理由は、知的な創造主によって造られたからではなく、太古のキリン同士の競争のおかげである。
首の長い原初のキリンは、首の短い原初のキリンよりも多くの食べ物にありつけ、より多くの子孫を残すことができたので、そのような進化を遂げたというわけだ。
だが、今日の人類は自然選択ではなく、知的設計者として新たな生物を作り出すことに成功している。
それは「遺伝子の操作」によって。
2000年、ごく普通のウサギの胚を取り出し、そのDNAに緑色の蛍光性のクラゲから採った遺伝子を移植した。
すると、なんと緑色の蛍光性のウサギが誕生したのだ!
さらに他の例もある。
1996年、マウスの背中に牛の軟骨細胞を移植し、それを「人間の耳」に似た形に作ることが出来た。
マウスの背中から人間の耳が生えているという、なんとも不気味な形だが、その技術を使えば、人工的な耳を作り出し、それを人間にも移植することが可能になるという。
マウスのゲノムには約25億個の核酸塩基が含まれてるのに対して、人間のゲノムには約29億個の核酸塩基が含まれている。
人間の方がたった16パーセント多いだけなのだから、これがマウスにしかできないなんてことはほぼありえない。
「遺伝子工学によって天才マウスが造り出せるのなら、天才人間も造り出せるだろう」というのが、科学的な見地だ。
これが人間がこれまでの生物と一線を画すような生物になりかけている1つの理由だ。
そしてもう一つ、別の方向性からの理由もある。
それは「バイオニック生命体」になるというものだ。
これはサイボーグ工学などを使い、有機的な器官と非有機的な器官を組み合わせたサイボーグになるというもので、最近では都市伝説や未来の構想として、度々話題にされている。
例えば、バイオニック・ハンド(生体工学を利用して造った義手)を装着した人間がそれにあたる。
2001年に事故で両腕を失ったアメリカの電気技師ジェシー・サリヴァンは、シカゴ・リハビリテーションセンターの好意で、現在2本のバイオニック・アームを使っている。
このバイオニックアームの際立った特徴は、思考だけで操作できる点だ。
ジェシーの脳から届いた神経信号をマイクロコンピューターが電気的な指令に変換し、腕を動かす。
例えば、ジェシーは腕を挙げたいと思えば腕を挙げることができる。
本物の腕と比べれば、ごく限られた範囲の動きしかできないが、この腕のおかげでジェシーは日常の単純な機能を果たすことができるのだ。
バイオニックアームは今後際限なく発達する可能性を秘めており、やがてボクシングのチャンピオンでさえ、か弱く見えるほど強力になるかもしれない。
そのうえ、数年ごとに取り換えたり、体から外して遠隔操作できるという利点もある。
だが、現在進行中のあらゆるプロジェクトのうちで最も革命的なのは、脳とコンピューターを直接結ぶ双方向性のインターフェイスを発明する試みだという。
それが成功すれば、コンピューターで人間の脳の電気信号を読み取ると同時に脳が解読できる信号を送り込むことができる。
これは「めちゃくちゃ賢くなれるぞ、ヤッター!」というような、そんな生半可なものではない。
想像してみて欲しい。
例えば、自分の知識や感情が、インターネットのように大多数の人と繋がっているとしたら?
他人の気持ちや状況を、自分のことのように、本当の意味での感情移入ができるとしたら?
あらゆる人間があらゆる人間の知識や感情、想像を共有できるとしたら?
こうなれば、自分の心は自分だけのものではなく、誰かの夢は自分の夢でもあり、性別や自己などのあらゆるアイデンティティの概念がなくなる。
それはちょうど、『新世紀エヴァンゲリオン』の人類補完計画のようなもので、全ての人間を融合させた「別の存在」になってしまうのだ。
著者のユヴァル・ノア・ハラリ氏は、
「そのようなサイボーグはもはや人間ではなく、生物でさえなくなるのだろう。
何か完全に異なるものなのだ。
あまりに根本的に違い過ぎて、それが持つ哲学的意味合いも、心理的意味合いも、政治的意味合いも、私たちにはとうてい把握できない。」
と述べている。
歴史を振り返ってみて分かることは、今の歴史はなるべくしてなったものではなく、様々な可能性が混ざり合い、たまたま今の歴史になったに過ぎないということだ。
もう一度過去のある時点に戻り、歴史を繰り返したなら、全く違った結果になる可能性が高い。
しかし人間の歴史を見ると、人類は絶えず統一に向かい、絶えず進歩に向かっていることは明らかだ。
このような「習性」を考えると、私たちにはこの科学の進歩を止めることはできない。
ユヴァル・ノア・ハラリ氏曰く、唯一私たちが試みられるのは、科学が進もうとしている方向に影響を与える事だけだという。
そして、この『サピエンス全史』はこう締めくくられる。
私たちが自分の欲望を操作できるようになる日は近いかもしれないので、ひょっとすると、私たちが直面している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」ではなく、「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。
この疑問に思わず頭を抱えない人は、おそらくまだ、それについて十分考えていないのだろう。
あらゆる固定観念がなくなり、全てのことができるとしたら、あなたは何を望むだろうか?
何かあれば
までどうぞ!