突然ですが、
あなたは今、幸せですか?
幸せだと答えた方、安心してください。
いつか、幸せじゃなくなります。
幸せじゃないと答えた方、安心してください。
若干上がる時もありますが、基本的にそのままです。
ですが、別に驚かしたり、不安にさせたりするつもりはありません。
むしろその逆で、幸せになれないのが平常運転であると伝えたいのです。
そして、それは悪いことでもないよ、と。
ということで、今回は「なぜ人は幸せになれないのか?」について解説していきます!
この記事はユヴァル・ノア・ハラリの著作『ホモ・デウス テクノロジーとサイエンスの未来』という本を参考に書いています。
この本を読む前と後では、現代に対しての価値観が全く変わります!
是非、買って読んでみて下さい!
人間は古来よりずっと幸せを求めている
「幸せ」という抽象的な概念を捉えるためには、昔の人たちが「幸せ」に対してどのような対応をしていたのかを知るのが手っ取り早いです。
歴史を通して、無数の思想家や予言者や一般人が、命そのものよりもむしろ「幸せ」を至高の善と定義してきました。
古代ギリシアの哲学者であるエピクロスは、神々の崇拝など時間の無駄であり、死後の存在というものはなく、幸福こそが人生の唯一の目的である、と説いたのです。
当時の人のほとんどは、エピクロス主義(快楽主義)を受け入れませんでしたが、今日ではこの主義が当然の見方になっています。
天国や神のようなものは不確実で信じがたいものであり、そんなものに頼るより自分が幸せになるために生きていく。
これはエピクロス主義に他なりません。
しかし、現代のエピクロス主義とエピクロスが考えた「幸福の追求」は異なる点もあります。
それは、エピクロスの「幸福の追求」はごく個人的な行為であるのに対して、現代における「幸福の追求」は集団的プロジェクトと考えることです。
政府による計画立案と経済的資源と科学研究がなければ、個人による幸福の探求ははかどりません。
もし、日本が戦争中であったり、経済が危機に陥っていたり、医療が存在していなかったら、どんなに大変なことになるかは想像できますよね。
イギリスの哲学者である、ジェレミー・ベンサムは18世紀末に、至高の善は「最大多数の最大幸福」であると断言しました。
そして、国家と市場と科学界の、唯一の価値ある目標は、全世界の幸福を増進することである、と結論したのです。
政治家は平和をもたらし、実業家は繁栄を促し、学者は自然を研究するべきで、それは王や国家や神の栄光を増すためではなく、誰もがより幸福な生活を楽しめるために存在しているのだと。
全体の成功と個人の幸福は結びつかない
19世紀と20世紀には、ベンサムの考えを支持する人は多かったものの、それは口先だけでした。
政府も企業も研究所も、もっと切実で明確に定義された目標に的を絞りました。
国家は国民の幸福ではなく、領土の大きさや人口の増加やGDP(国内総生産)の成長で成功の度合いを測ったのです。
ドイツやフランス、日本のような先進工業国は、教育、医療、福祉の強大な制度を打ち立てていったが、これらの制度は、個人の健全な生活を保障することよりも、国を強化することを目指すものでした。
学校は、国のために忠義を尽くす、高い技能を持った従順な国民を生み出すために創立されたもので、医療制度も同様です。
ところが、過去数十年の間に状況は逆転し、ベンサムの考えはこれまでよりはるかに真剣に受け止められるようになりました。
国を強化するために確立された様々な巨大な制度は、実は個々の国民の幸福と健全な生活のために尽くすべきだと考える人が増えているのです。
僕たちは国に尽くすのではなく、国が僕たちに尽くすためにあるのだ、と。
20世紀では、国家の成功を評価する最高の基準は、一人当たりのGDPだったかもしれません。
この基準で考えると、国民一人が平均で年間5万6000ドル相当の財とサービスを生産するシンガポールの方が、年間1万4000ドルしか生産しないコスタリカよりも、国として成功していることになります。
しかし、何度も調査が行われましたが、その度に、コスタリカ人の方がシンガポール人よりもはるかに高い人生の満足度を報告しているのです。
結局、人々は生産したいとは考えていません。
生産が大事なのは、それが幸福のための物質的基盤を提供してくれると考えているからです。
しかし、生産はあくまで手段にすぎず、目的ではありません。
なのでこのように、全体の利益の追求と個人の幸福の追求は噛み合わないのです。
環境が良くなったからといって幸せになるとは限らない
僕たち人間は過去数十年に前例のない成果をあげてきたにも関わらず、現代の人々が昔の先祖たちよりもはるかに満足しているかどうかは怪しいところです。
なぜなら、伝統的な社会と比べて先進諸国の方が繁栄していて、生活が快適にも関わらず、自殺率がずっと高いという結果が出ているからです。
ペルーやハイチ、フィリピン、アルバニアなどの開発途上国では、毎年自殺する人は10万人当たり5人程度です。
一方、日本やスイス、フランス、ニュージーランドのような豊かで平和な国では、毎年10万人当たり10人以上の人が自ら命を絶っているのです。
また、韓国は1958年時点では、貧しい国で、独裁的な政権に支配されていました。
現在は、有数の経済大国であり、国民の教育水準も高く、割と自由主義的な民主政権を持っています。
しかし、1958年では10万人当たりの自殺者は9人だったが、今日では10万当たり36人もの自殺者がいるのです。
もちろん、悪い事だけではありません。
たとえば、小児死亡率は急激に下がり、現代生活のストレスも部分的にはなくなりました。
とはいえ、僕たち人間の出来ることが増えた量に比べれば、それに見合った幸福度は得ていません。
石器時代の人は、1日当たりおよそ4000キロカロリーのエネルギーを利用したと言われています。
これは食物として摂取するエネルギーだけではなく、道具や衣服、美術品や焚火に使うエネルギーも含んでいます。
一方、今日の平均的なアメリカ人は、自身の胃袋ばかりではなく、自動車やコンピューター、冷蔵庫、テレビなどのために、毎日22万8000キロカロリーのエネルギーを消費しています。
エネルギーの消費量は石器時代と比べて約60倍にもなったわけですが、では、今日のアメリカ人は60倍幸せになれたのでしょうか?
答えはノーです。
1950年から2000年までの間にアメリカのGDPは2兆ドルから12兆ドルにまで増え、一人当たりの実質所得は2倍になりました。
さらにエアコンや食器洗い機、自動車、コンピューターが生活を一新しました。
それにも関わらず、1990年代のアメリカ人の主観的幸福度は1950年代とほとんど同じなのです。
また、日本も同様で、日本は史上屈指の景気拡大があり、1958年から1987年にかけて、平均実質所得は5倍に増え、これまでと比べて圧倒的に豊かになりました。
にもかかわらず、1990年代の日本人と1950年代の日本人の幸福度はほとんど変わりませんでした。
つまり、出来ることが増え、自分を取り巻く環境が良くなるということは、必ずしも僕たち人間を幸せにするわけではないのです。
「幸せ」とは何か?
では「幸せ」とは何なのでしょうか?
ここまで読んだ方や人の気持ちに敏感な方は、「幸せ」とは主観的なものである、ということをすでに理解できているかもしれません。
もっと正確に言えば、「自分の体の中の快感」です。
生命科学の視点で見れば、これ以外には存在しないのです。
「幸福」と「苦しみ」はそれぞれ、様々な身体的感覚同士の異なるバランス以外の何物でもありません。
僕たちは外の世界に反応しているのではなく、自分の体内の感覚に反応しているだけなのです。
もし仮にあなたが、職を失ったり、離婚をしたり、家族の誰かが亡くなったりしたら、悲しいと思いますよね。
しかし、それは実際にそのことが原因で苦しむのではありません。
そのことが原因で、「不快」を覚える一種の身体的感覚に襲われるから、苦しむのです。
つまり「幸せ」も「不幸」も「苦しみ」もすべて、あくまで主観的な自分の身体的感覚により生まれるのです。
これは「自分が幸せだと思ったら幸せで、不幸だと思ったら不幸」という感情的な理解と似ていますが、少し違います。
なぜなら、そのような「幸せと思うこと」すら、体内の感覚に支配されているということだからです。
「幸せは人それぞれ」というのは、快感を感じる要素が人それぞれ違う、ということを指すのであって、「幸せ」の根源は「自分の体の中の快感」というのは誰しも共通なのです。
人間は「幸せ」になるようには作られていない
では、「幸せ」になるためには「身体的感覚による幸福」を最大にすればいいということになります。
ですが、ことはそう簡単にはいきません。
想像してみてください。
あなたが身も心も踊るような嬉しい出来事があった時のことを。
その時は、とてつもない幸福感を覚えるでしょう。
そして、しばらくその時は続きます。
しかし、段々とその感覚にも慣れ始めます。
幸せに感じていたことがいつしか当たり前になり、ありがたみを感じにくくなっていき、やがてこれまでと同様の普通の気持ちに戻ってしまいます。
そして、新たに自分を幸せにしてくれるものをまた探し始める...。
これはあくまで、あなたが幸せを感じにくいとか、欲張りだとかそういうことではありません。
そうなっても仕方ないのです。
なぜなら、人間は「幸せ」になるために作られてはいないからです。
正確に言えば、人間だけでなく、生物全体に言えることです。
これは全て進化のせいです。
それに関して、一つ面白い実験があります。
科学者たちが数匹のラットの脳に電極を繋いで、ラットがペダルを押すだけで興奮の感覚を生み出せるようにしました。
そして、ラットたちは、美味しい食べ物をもらうかペダルを押すかという選択肢を与えられると、なんとペダルを選んだのです。
ラットたちはひたすらペダルを押し続け、とうとう空腹と疲労で倒れました。
このように簡単に、そして持続する幸せを感じ続けることができるなら、生物はそれだけを繰り返してしまいます。
もし仮に、リスがたった一つの木の実で永続的に幸せになり続けるとしたら、そのリスは新たに木の実を探しに行きません。
それどころか、相手を見つけ繁殖行為することすらも興味をもちません。
すると、必然的にその種は存続することが出来ませんよね。
一方で、快感を得られないのであれば、生物はその行動を行おうとは思いません。
もし仮に、食べ物を食べるのが不快に感じてしまったら。
もし仮に、繁殖行為が不快なものでしかなかったら。
もし仮に、競争に一切の楽しみがなかったとしたら。
そうであったなら、生物はこれらの行動を行わないのです。
つまり、快感という名の「幸せ」は生物の生存と進化のために生まれたものであると同時に、生存と進化のために長続きしないようにできている、ということです。
生物の本能というのは、ほとんど全て種の生存のためのものです。
「幸せ」を感じるという本能は、あくまで種の生存のために後付けで備え付けられたものであり、生物は元から「幸せ」になるために作られているわけではないのです。
人間は他の生物と違うと思いますか?
...どうやら、過去数十年にわたるの生物学者の研究で、
「他より複雑なアルゴリズムを持つだけで、人間も他の生物同様、自由意志など存在しない」
というのが分かっているそうですよ。
まとめ
ということで、今回は「なぜ人は幸せになれないのか?」ということについて解説していきました。
こんなの信じないと思うでしょうか?
それとも受け止めて絶望してしまうでしょうか?
ですが、これは悪いことだけではありません。
冒頭に書いた通り、これが平常運転なので、「幸せにならなきゃいけない」という強迫観念から救われることでもありますからね。
「幸せ」以外がダメなんて、そんなこと言ったら全ての人間、いや全ての生物を否定することになります。
あなたは「幸せになれない」ということについて、どう思いますか?
何かあれば
までどうぞ!