突然ですが、あなたは何が一番怖いですか?
僕は死ぬことが一番怖いと考えてしまいます。
実感もないし、それがいつ来るのかも分からないですが、漠然と死は怖いものと思ってしまいます。
でも、その「死」が近い将来、僕達の前から消え去る可能性があることを知っているでしょうか?
今回は人間が「不死」になる可能性と、なった際の懸念について書いていきます!
また、この記事はユヴァル・ノア・ハラリの著作『ホモ・デウス テクノロジーとサイエンスの未来』という本を参考に書いています。
この本を読む前と後では、現代に対しての価値観が全く変わります!
是非、買って読んでみて下さい!
不死を求める
21世紀、人間は「不死」を求める可能性が高いと考えられます。
今日、僕達は「命こそが最も大事」だと教えられますね。
学校の先生にも、政治家にも、法廷の弁護士にも、漫画の主人公にも。
実際に、国連で採用されている「世界人権宣言」は、「生命に対する権利」が人類にとって最も根本的な価値である、とキッパリ言い切っています。
死はこの権利を明らかに侵害するので、死は人道に反する犯罪なので、僕達は全力でそれと戦うべきであるというわけです。
しかし宗教やイデオロギーは、それに反して生命そのものは神聖視していません。
それらは存在以上のものを神聖視し、それ故に死に対して非常に寛容だったのです。
例えば、キリスト教やイスラム教やヒンドゥー教では、人生の意味はあの世でどのような運命を迎えるかで決まると断言していたので、これらの宗教は死を、世界の不可欠で好ましい部分と見ていました。
人間が死ぬのは神が決めたからであり、死の瞬間は、その人が生きてきた意味がどっと溢れてくる霊的な体験であると。
それに対して現代の科学と文化は、生と死を完全に違う形で捉えます。
両者は死を超自然的な神秘とは考えず、死が生の意味の源泉であるとは断じて見なしません。
現代人にとって死は、解決するべき課題だと考えます。
中世のおとぎ話では、頭巾の付いた黒マントを身にまとった死神に、骨だけの指で肩を叩かれることで、人間は死にます。
しかし現実はそうではないと、現代人である僕たちは分かりますよね。
人間が死ぬのは死神に肩を叩かれたからでもなく、神がそう決めた宇宙の法則だからというわけでもありません。
人間はいつも、何らかの技術的な不具合のせいで死ぬのです。
例えば、心臓が血液を押し出すのをやめる、癌細胞が肝臓に拡がる、肺で病原菌が増殖する、などです。
では、これらの技術的問題は何によって引き起こされるのでしょうか?
それは、他の技術的問題です。
遺伝子が偶然、変異を起こし、遺伝の指令を書き換えたから癌が拡がる。
誰かがくしゃみをしたから、自分の肺に病原菌が巣くう。
このように、超自然の神秘は一切なく、全て技術的な問題なのです。
そして、どの技術的問題にも技術的解決策が存在する。
キリストの再臨など待つ必要はなく、尋常ではない頭脳を持つ人間が2、3人いれば、研究室で解決できるのです。
今日では、癌細胞を化学療法やナノロボットによって破壊することができます。
抗生物質で肺の病原菌も根絶することができます。
心臓が血液を押し出さなくなったら、薬や電気ショック、果ては新しい心臓の移植もできます。
もちろん、現時点であらゆる技術的問題を解決することはできないが、今まさにこれを読んでいる間にも、遺伝学やナノテクノロジーの研究が進んでいます。
今や、科学の研究に携わっていない僕達、一般人でさえも、死を技術的問題と考えるのが当たり前になっていますね。
誰かが病院に行き、「先生どこが悪いのでしょう?」と尋ねると、医師は「インフルエンザです」「癌です」などと答えます。
医師は「人はどのみち何かで死ぬものです」とは断じて言いません。
だから僕たちは、インフルエンザや癌などの病気は技術的問題であり、いつの日か解決策が見つかるだろうと考えているわけです。
科学者や医師の大多数はまだ、不死という夢をあからさまに語る段階ではなく、具体的な問題を克服しようとしているだけだと主張します。
とはいえ、死も老化も具体的な問題の結果にほかならないので、医者と科学者が立ち止まり、
「これ以上は一歩も進まない。結核と癌には打ち勝ったが、アルツハイマー病と戦うためには何もしない。これからも人がアルツハイマー病で死に続けても構わない」
とは言うわけはありません。
なので、最近ではもっと率直に
「現代科学の最重要事業は死を打ち負かし、永遠の若さを人間に授けることである」
と明言する科学者が増えているのです。
その最たる例が、学者のオーブリー・デグレイと、発明家のレイ・カーツワイルです。
カーツワイルは2012年に、グーグルのエンジニアリング部門ディレクターに任命され、グーグルはその1年後、「死を解決すること」を使命として表明するキャリコという子会社を設立しています。
また、グーグルは2009年にも、やはり不死の実現を心から信じるビル・マリスを、投資ファンドのグーグル・ベンチャーズのCEOとして任命しています。
マリスは2015年1月のインタビューで、
「500歳まで生きることは可能かと今日訊かれたら、私の答えはイエスです」
と答えているのです。
遺伝子工学や再生医療やナノテクノロジーは猛烈な速さで発展していて、人間は2200までに不死は可能だと考える専門家もいれば、2100年にはもう可能だと考える専門家もいます。
前述した、カーツワイルとデグレイはさらに楽観的で、2050年の時点で健全な肉体と豊富な資源を持っている人なら誰もが、死を10年単位で先延ばしにし、不死を狙って成功させる可能性があると考えています。
正確にはそのような人は「不死」ではなく、「非死」と言う方が正しいです。
なぜなら「非死」の人間は、寿命や病気では死なないものの、事故によるトラックの衝突や、爆弾で体を木っ端微塵にされてはひとたまりもないからです。
だとすれば1つ考えられることがあります。
それは、そのような「非死」なる人間は、史上最も不安を抱えた人間になるだろう、ということです。
僕達が、海を泳いだり、登山をしたり通りを歩いたりするのは、いつか自分が死ぬと思っているからです。
どんなことにも死の危険があるのだから、自分の欲求を満たすために、思うままに生きようとするわけです。
しかし、永遠に生きていられると知ったら、恐らくほとんどの人は家から一歩も出ないでしょう。
なぜなら、無限の寿命を引き換えにしてでも、外食をしたり、公園で遊んだりしたいと思う人はほとんどいないからです。
昔の人々が、死を神聖視したのは死が避けられなかったからです。
しかし、死が克服できると分かった時、皮肉にも「死」への恐怖をこれまでにないほど増大させたのです。
まとめ
ということで今回は、僕たち人間は近い将来「不死」になる可能性がある、という話と、その際の懸念について書いていきました。
科学は僕たちの想像のはるか上をいくスピードで発展しています。
今は不死なんて考えられなくても、その未来は知らないうちに目の前まで来ているのかもしれません。
その時には、僕たちの倫理観や価値観、生きる意味は一新され、今とは全く違う世界になっているのでしょう。
何かあれば
までどうぞ!