(◍•ᴗ•◍)v

自分の好きなことや得意なこと、オススメのものなどを紹介するブログ。

今だからこそ響く!早すぎた天才、三島由紀夫の言葉 『若きサムライのために』

 

 

「私の言いたいことは、口に日本文化や日本的伝統を軽蔑しながら、お茶漬けの味とは縁の切れない、そういう中途半端な日本人はもう沢山ということであり、日本の未来の若者にのぞむことはハンバーガーをパクつきながら、日本のユニークな精神的価値を、おのれの誇りとしてくれることである。」

 

 

これは『若きサムライのために』に書かれている、三島由紀夫の言葉だ。

 

 

 

どうだろうか?

三島由紀夫がもう沢山といった日本人に、我々はなっていないだろうか?

 

SNSを少し覗くだけで、日本の文化や安全性にどっぷりと肩まで浸かっているにも関わらず、「ここが日本の駄目な所だよな」とか「日本も終わりだな」などの発言をしている人を見つけるのは簡単なことだ。

 

50年前から日本の方向性に危機感を持っていた三島由紀夫だが、その危機感通りの方向に進んでいったということだろう。

彼の檄はまさしく本質を突いていたのだ。

ただ余りにも早すぎた、時代が彼に追いついてこなかった。

 

三島由紀夫には先見の明があった。

政治、国民性、果ては日本の行く末など、今日の様々な要素をずいぶん前から予言していた。

 

それは豊富な知識と鋭い観察眼、そして物事を考え抜く情熱の賜物だったのではないかと思う。

そんな彼の魂がこもった言葉に、僕は度々ハッとさせられる。

 

例えば、こんな言葉。

 

未来社会を信じない奴こそが今日の仕事をするんだよ。

現在ただいましかないという生活をしている奴が何人いるか。

現在ただいましかないというのが”文化”の本当の形で、そこにしか”文化”の最終的な形はないと思う。

小説家にとっては今日書く一行が、テメェの全身的表現だ。

明日の朝、自分は死ぬかもしれない。

その覚悟なくして、どうして今日書く一行に力がこもるかね。

その一行に、自分の中の集合的無意識に連綿と続いてきた”文化”が体を通してあらわれ、定着する。

その一行に自分が”成就”する。

それが”創造”というものの、本当の意味だよ。

未来のための創造なんて、絶対に嘘だ。

三島のいうことには未来のイメージがないなんていわれる。

バカいえ、未来はオレに関係なくつくられてゆくさ、オレは未来のために生きてんじゃねェ、オレのために生き、オレの誇りのために生きてる。」

 

 

という言葉。

 

これはつい最近読んだ『サピエンス全史』にも書いてある通り、未来の成功と個人の幸福度は全くの別物という話にも繋がるだろう。

 

今のために生き、今のために生活する。

その積み重ねが勝手に歴史になっていくのであって、歴史のために生きるのは根本から間違っているのではないかと思わされる。

 

 

三島由紀夫現代にも通じる本質を突いていると同時に、その考え方は現代の僕たちとは違っているところが多い。

今日の男女平等や様々な文化を受け入れよう、個性を認め合おうというような風潮ではなく、これはこうあるべき、こうするべきという理想を追求していく考えを多く発言している。

 

例えば、

 

「危機を考えたくないということは、非常に女性的な思考である。

なぜならば、女は愛し、結婚し、子供を産み、子供を育てるために平和な巣が必要だからである。

平和でありたいという願いは、女の中では生活の必要なのであって、その生活の必要のためには何ものも犠牲にされてよいのだ。

しかし、それは男の思考ではない。

危機に備えるのが男であって、女の平和を脅かす危機が来るときに必要なのは男の力であるが、いまの女性は自分の力で自分の平和を守れるという自信を持ってしまった。

それは一つには、男が頼りにならないということを、彼女たちがよく見きわめたためでもあり、彼女たちが勇者というものに一人も会わなくなったためでもあろう。」

 

 

 

現状を肯定するという考え方と理想を追求していく考え方と、どちらが本当に正しいのかは誰にも分からないが、彼の言っていることも間違いなく理がある。

その考えを知っているのと知らないのとでは、ものの見方がかなり変わってくるはずだ。

 

 

三島由紀夫は、天皇にアンチエゴイズム、アンチ近代化の象徴としての役割を望んでいた。

しかしその願いは叶わなかった。

そして、彼の割腹自殺から50年。

 

現代を生きる、僕たち「若きサムライ」にとってのアンチ近代化の象徴は、皮肉にも三島由紀夫自身が担っているのである。

 

 

 

 

何かあれば

しょう (@sho2019blog) | Twitter

までどうぞ!