「現在、最も聴かれている音楽ジャンルは何か?」
あなたは分かるでしょうか?
答えは「ヒップホップ」です。
それが示す通り、日本でもラッパーやDJがフィーチャーされる機会が増えています。
そんななかで
「なぜこんなにヒップホップが人気なのか分からない」
「口も悪いし、バトルの文化もあって怖い印象がある」
と思っている人もいるのではないでしょうか。
そんな人達に向けて、今回は「ヒップホップの起こりと、なぜこんなに人気が出るのか」について解説していきます。
歴史を知れば、今までとは全く違った目線を持ってヒップホップを聴けるようになるかもしれません!
また、この記事はみのさんの『戦いの音楽史 逆境を越え 世界を制した 20世紀ポップスの物語』を参考に作成しています。
そちらではヒップホップ以外にも、ロックやブルースの歴史なども紹介しているので興味がある方は読んでみてください!
1.ヒップホップ黎明期
ヒップホップの黎明期は1970年代になります。
1914年から50年頃までに起きたグレート・マイグレーションによってアメリカの都心に多種多様な民族が暮らすようになりました。
すると、上流階級や中流階級の白人たちが郊外へと移り住む「ホワイトフライト」という現象が生まれます。
ニューヨークのブロンクス地区では、ユダヤ系、イタリア系、アイルランド系の移民たちが多く暮らしましたが、1950年代から1960年代にかけてブロンクス横断高速道路の建設が進められるようになると彼らは郊外へと移動します。
替わりにアフリカ系アメリカ人たちとジャマイカからの移民、プエルトリコ、ドミニカをはじめとするラティーノ達が住み始めます。
しかし、1970年代の不況によってこの地区の失業率が60%近くに上り、治安が非常に悪くなってしまいました。
そんな当時のブラック・ミュージックはディスコの最盛期でしたが、彼らのようなクラブに行けない貧困層の若者たちは、公民館や公園のバスケットコートのようなところで「ブロック・パーティー」と呼ばれる、地区ごとの若者たちが小さなコミュニティを形成し、音楽を楽しむ催しを開くようになりました。
これがヒップホップの始まりとなったのです。
また、この1970年代後半の黎明期のヒップホップは「オールドスクール」と呼ばれます。
2.オールドスクールの三大DJとヒップホップの四大要素
そんなブロックパーティーからカリスマ的なDJが3人誕生しました。
ひとりはジャマイカ系のクール・ハークです。
1973年、ウエストブロンクスのブロックパーティーでレコードをかけていたハークは、集まったみんながドラムのリズムだけになる「ブレイク」部分でやたらと盛り上がることに気づきました。
そこでハークはもう1枚同じレコードを買ってきて、ターンテーブル2台に同じレコードをかけ、ブレイクの部分を繋ぎ続けました。
これが「ブレイクビーツ」という技術の源流になったのです。
また、「ブレイクダンス」も、このブレイクのところで盛り上がるダンサーたちの踊りが流行したことから、そう呼ばれるようになりました。
そして「ブレイクビーツ」で踊る人を「Bボーイ」や「Bガール」と呼び始めたのもハークが最初で、彼らを楽しませたいという思いからヒップホップの基本スタイルが生まれました。
ふたりめはアフリカ・バンバータという元ギャングのボスという経歴を持ったDJです。
当時のブロンクス地区にはギャング組織がたくさんあり、縄張り争いが絶えず行われていました。
中でもバンバータは人望が厚く、地元のギャングたちを次々と自分の配下に取り込んでいきました。
しかし、彼はヒップホップの可能性に気づいてからは、ケンカはやめて争いは平和的に解決すると宣言し、ズールーネイションというチームを組織します。
そして、ブロンクス地区のブロックごとに幹部をおいて、揉めごとが起きるとバンバータが出てきて仲裁をしたのでした。
その際、ギャングの銃撃戦の代わりにダンス・バトルを提案したとされています。
つまりラップでもダンスでも、ヒップホップの文化にバトルの要素が強いのはこのギャング文化が根っこにあるからなのです。
そして最後の3人目はグランドマスター・フラッシュで、彼は「DJの技術をさらに追及した」という点でヒップホップ史における重要な人物です。
というのも、彼はレコードを擦ってリズミカルな音を出す「スクラッチ」の技術を確立させたのでした。
また、ここでヒップホップを構成する4つの要素を紹介しておきます。
それぞれ「DJ」「ブレイクダンス」「グラフィティ」「ラップ」とされています。
ですが、この時期のヒップホップの花形はDJとダンサーで、ラッパーは今日のイメージとは違ってサポート的な役割をしていました。
しかし、ブレイクビーツに合わせて韻を踏み始める人が徐々に出てきます。
これが今のラップの原型となりました。
「グラフィティ」はスプレーやフェルトペンなどを使って壁に書かれたアートのことで、これは早くからオーバーグラウンドの世界にも受け入れられました。
ただし、グラフィティはヒップホップがこれまでの文化にアクセスするためのツールとしては機能しましたが、未だ単体で商業的な成功には至っていません。
3.親に「聴くな!」と言わせた音楽は勝ち
1980年代は当時、アメリカでは「ゲットー」と呼ばれるマイノリティたちの密集居住地で薬物が蔓延しており、それの摘発のために警察は頻繁にギャングを取り締まっていました。
その姿勢はずさんなもので、有色人種であれば誰彼構わず手荒に職務質問し、証拠がなくてもギャングのデータベースに登録してしまうようなありさまでした。
あまりに理不尽な取り締まりに、アフリカ系アメリカ人やラティーノ達は当然のように起こっていました。
そんななか登場したのが伝説的ヒップホップグループ『N.W.A』です。
彼らは過酷なゲットーの環境をラップし、ありのままを表現するためにはストリートの言葉を使わなければいけないと考え、痛烈で過激な表現を取り入れました。
これを「ギャングスタ・ラップ」といいます。
「暴力」「性的」「犯罪」といった未成年にふさわしくない表現があると認定された音楽作品に対して、全米レコード協会(RIAA)がステッカー添付で勧告する「ペアレンタル・アドヴァイザリー」が出てきたのもこの時です。
これはPMRCという市民団体の活動によって導入された制度で、PMRCは当初、悪魔崇拝的傾向をもつ一部のヘヴィメタルを問題視していました。
しかし、ギャングスタ・ラップが登場してきた頃からは、対象がヒップホップに向かうようになります。
1988年に発売されたN.W.Aのファーストアルバム『ストレイト・アウタ・コンプトン』にも当然、ペアレンタル・アドヴァイザリーのステッカーが貼られていました。
ところが、大人たちの狙いとは裏腹に、ステッカーが貼られることで「刺激が詰まった作品」だと若者たちが見抜き、売り上げが伸びる結果となりました。
「ロックンロール」が登場してきた時と同様に、大人たちが「聴くな!」と声高に罵る音楽は、若者にとって「かっこいい」ものであるのは世の常なのかもしれません。
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