「死を意識することで初めて、生きている実感を得る」
これは僕自身が思うことだが、もしかしたら無意識下に刷り込まれた誰かの言葉かもしれない。
そう感じてしまうほど、この言葉はよく使われている。
映画や小説などの物語においても、主人公たちが死の危険に瀕する場面がよく見られることだろう。
その理由は冒頭で書いたように、死を目の前まで近づける事で、逆に生きていることの実感や喜びのようなものを表現したいからではないかと僕は思っている。
小川糸さんの著作『ライオンのおやつ』に登場する主人公、海野雫もまたそうである。
主人公の雫は、33歳という若さで末期がんという診断をされる。
そのことをきっかけに幸か不幸か、雫は「本当の自分」を手に入れることになる。
それまでの雫は「いい子」であった。
あまり他人に怒る方ではなく、他人の悪口を言う方ではなく、自分よりも他人の感情を優先する方だった。
今、これを読んでくれている人の中にもそういう性格の人がいるのではないだろうか。
もしあなたがそうであったならわかるはず。
それは自分を意識して正しているからで、本当は我慢をしているのだということを。
雫もまさにそうだった。
我慢していたのだ。
しかし、死ぬことが他人事ではなくなった時、雫は我慢することをやめた。
病院で激痛に耐える延命治療よりも、海が見えるホスピス「ライオンの家」で自由に余生を暮らすことに決めたのだ。
自分で決めた道を進む。
そう言葉で言うのは簡単だけど、決めたが故の後悔も生じてしまうものだ。
だって自分で選んでしまったのだから。
雫もライオンの家に入った直後は優雅に暮らしていた。
ライオンの家にいる人たちは愉快な人が多く、雫は生まれて初めてありのままの自分を受け入れられたような感覚を覚え、満足していた。
しかし、病気が原因でここにきたのだ。
その日々は長くは続かない。
日に日に弱る体。
それに伴い弱る精神。
その時、雫は激烈な感情に襲われる。
「生きたい、まだ死にたくない」
あれほど死を覚悟したつもりでいた雫だったが、そうではなかった。
そう思うことの方が自分にとって都合がいいから、受け入れたふりをしていただけだった。
雫は駄々をこねる赤ちゃんのように泣き喚いた。
だが、同時に雫の心に変化が訪れる。
「面白いことに、生きたい、まだ死にたくない、という気持ちを素直に認めてあげたら、心が軽くなった。」
往生際が悪くて、みっともないとまで思っていた、まだ生きたいと願うこと。
しかし、その感情も含めて正直に生きることが、本当に死を受け入れることなのだと、雫は悟ったのだ。
その後の雫の目には、世界が全く別のものに見えた。
かの文豪、三島由紀夫の言葉
「体験というのは分からない所に隠れている。
道を歩いている時に小石に躓いたとする。
その石が人生において非常に大きな意味を持ってしまうこともある。
そういう体験を、自分で大きな意味を持たすという能力が大事なんだ。
体験がないと駄目だが、同時に体験を体験たらしめる力がなければならない。」
これは小説家になるための才能についての言葉だが、作中の雫はまさにその境地に至る。
青空が広がっているだけで、感動して涙が出てしまう。
お粥から立ち上る湯気を見るだけで、神さまへの感謝の気持ちが沸き起こる。
バナナの美しさに気付き、バナナの命も、自分の命も、等しく尊いということを感じる。
体の自由は次第にきかなくなり、出来ることは減っていく一方でありながら、心の自由度はそれに反比例するかのようにどんどん増していく。
彼女はこの世に生を受けたことに感謝し、生んでくれた両親に感謝し、ライオンの家にこれたことに感謝し、人生の全てに感謝した。
そして、多くの人から受け取った感謝のバトンを、ある一人の命に繋いで、雫はこの世を去る。
この小説はミステリー小説のように、どんでん返しがあるわけではない。
人との出会いや別れはあるものの、とんでもない展開やトリック、はらはらする場面はほとんどないと言っていい。
しかし、体験を体験たらしめる力。
雫が至った、なんの変哲もないようなことが、本当はありがたいことだったのだと感じる力を読者に与えてくれる。
その能力を獲得した人は、どんな些細なことであっても、本人にとっては大きな意味を持ち、派手な展開にも勝る大きな体験に満ち溢れた人生を送ることになるだろう。
この小説『ライオンのおやつ』は、そういう隠れた奇跡に気づくことの大切さを読者に問うているように僕は思うのだ。
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